レイ・ブラッドベリ「最後の秘跡」より
ハリスン・クーパーはそっと立ち上がり、階段口をうかがってから、香り高いひとかかえの本を持って病室へ入った。両脇に蝋燭を灯したベッドには、もうすぐ死を迎える男が
仰臥 していた。 腕を真っ直ぐのばして脇に添え、頭を枕に重たくあずけ、目をぎゅっとしかめて閉じ、引き結んだ口は、天井に、というかその運命そのものに、はやく下がってきて命を奪うがいいと挑んでいるかのようだった。本が、まずベッドの一方で、ついで他方で手に触れると、老いた瞼がぴくぴく動き、乾いた唇が割れた。鼻孔から空気が洩れ出た。
「だれだ」
老人は小さな声でたずねた。
「いま何時だ」
「…口の辺りが不快感を覚え、胸の内にじとじとと十一月の霧雨が振り出すといつも、わたしはすこしでもはやく海に出る時だと思うのだ…」
ベッドの足元で、旅行者は静かに引用した。
「なに、なんだと」
ベッドの老人は口早にささやいた。
「…それが私の気鬱を晴らし、血行を良くする秘訣である」
訪問者は引用を続けながら移動して、死に行く人の両手の下に一冊ずつ本を置いた。わななく指が本をさすり、引っ込み、また触れて、さながら点字を読むふうだった。
見知らぬ訪問者は、本を一冊ずつ手にとって、表紙を見せ、なかの一ページをひらき、それからタイトルページをひらいて見せた。するとその小説の印刷の日付が、波の様に盛り上がり、ただよい、だがどこか遠い未来の浜辺にいつまでもとどまる。
病人の目が、表紙を、タイトルを、日付を順に見、それから訪問者の明るい顔へ上がって止まった。はっとした表情になって、老人は息を吐いた。
「おい、きみは旅行者のようじゃないか。どこからきた」
「時代が顔に出ますか」
ハリスン・クーパーは身を乗り出した。
「じつはーーーあなたに伝える
告知事実 があります」
「受胎告知 なんてものは、処女にだけあることだ」老人はつぶやいた。
「この誰にも読まれぬ本の下に処女は埋もれていない」
「僕はあなたを掘り出しに来たんです。遠隔の地から知らせを持ってきました」
「わたしのか」
小さな声が、そうきいた。
旅行者は重々しくうなづいたが、老人の顔色が暖かみを増すのを見て、微笑を浮かべた。
老いた目と口元の表情が、にわかに熱気をおびた。
「すると、まだ望みはあるのか」
「ありますとも」
「信じよう」
老人は一息つき、それからふと、いぶかった。
「しかし、なぜだ」
「それは」
ベッドの足元に立つ見知らぬ男はこたえた。
「僕はあなたを愛してやまないからです」
「わたしは君を知らんぞ」
「僕は貴方を知っています。---船首から船尾まで、左舷から右舷まで、メントゲルンマストからガンネルまで、ここにいたるまでの長い人生のすべての日の貴方を」
「おお、なんと甘美なひびきだろう」
老人は叫んだ。
「君の口から出る一言一句、君の目から光る一光一閃に、世界の礎たる事実がある。どうしてなんだ」
老人の目に涙がきらりと光った。
「なぜなんだ」
「この僕が、真実そのものだからです」
と、旅行者は答えた。
「僕は貴方に逢って、ひと言伝えたく、遠路はるばるやってきました。貴方は決して埋もれてはいません。貴方の生み出した巨獣は、しばし海中に没しているだけです。まだ前方に見えないが、やがてある年、名声赫奕たる人々、市井の無名の人々が、貴方の墓所に集い、『彼は水から躍り出る、立ち上がる、躍り出る、立ち上がる!』と叫ぶでしょう。すると、あの白い影が光の世界へ浮上するのです。大いなる驚嘆は嵐の中へ、轟くセント・エルモの火の中へ現れ出て、それにはあなたが一緒です。互いに身を縛め合って、彼がどこで動きを止め、貴方がどこから動き出すのか、どこで貴方が止まって、彼が疾走するのか、知るべくもありませんが、彼と貴方は世界を巡り、その航跡を追って図書館の大船団が出現する事でしょう。そうやって彼と貴方が、下級のそのまた下級の書誌学者ら、そして読者の、名も無い大洋を突き進むと、彼らは甲板を磨きつつ、貴方のたどる遥かな潮路を海図にえがき、荒れ狂う午前三時にどこからか聞こえる貴方の雄たけびに耳をすますでしょう」
「ほう!」
屍衣 となるシーツを着た人はいった。「いいことをいってくれるじゃないか、じつにいいことを。本当なのか」
「本当です。この手をのべて誓い、我が魂と生き血にかけて誓います」
訪問者が位置を変えてそのとおりにすると、ふたりの男の拳は合してひとつになった。
「この贈り物を墓へお持ちなさい。最後の時を迎えたら、ロザリオをつまぐるつもりで、このページを繰るのです。これがどこから来たか、誰にも口外してはなりません。嘲弄者達は貴方の指からロザリオを払い落とすでしょう。だから貴方は、夜明けの前の闇の中で、こうロザリオの祈りを唱えるのです。我は永久に生きるなり、と。それでもう貴方は不滅の人です」
「もういい、もうやめてくれ。黙ってくれ」
「黙りません。きいてもらいます。貴方の通ったあとには、火と燃える道が続くでしょう。それはベンガル湾にも、インド洋にも、喜望峰にも、ホーン岬の向こうにも、この世界の果ての彼方にも、およそ目路の及ぶかぎり続いて、奇跡の様に明々と燃え盛るでしょう」
彼は老人の手をいっそう強く握り締めた。
「誓って予言します。この先幾歳月、幾万という人が貴方の墓を訪れて、貴方を安らかに眠らせ、貴方の骨を暖め続けるでしょう。きこえますか」
「よし、我が最後の秘跡を執り行う司式はきみに決めたぞ。わたしは自分の葬儀を楽しむのではあるまいか。きっと楽しむ」
解き放された病人の手は、左右に置かれた本にひしとすがり、熱意あふれる訪問者は、べつの本を次々に取って日付を読み始めた。
「1922年…1935年…1940年…1955年…1970年。これが読めますか。この意味がわかりますか」
最後の一冊が、老人の顔前ににかざされた。燃える瞳が動いた。老いた口がかすれた声を洩らした。
「1990年?」
「貴方の年です。今夜から数えてちょうど100年です」
「本当か!」
「…もう行きます。でも今度は…僕が聞かせてもらいます。第一章冒頭。さあ、どうぞ」
老人の目が滑らかに動いて輝いた。舌で唇を潤し、まず声には出さず単語を辿り、ようやく、涙を流しながら囁いた。
「イシュメールと呼んでもらおう」
レイ・ブラッドベリ 「最後の秘跡」より
このお話はいわゆる書痴の主人公が、タイムマシンを開発し、不遇に死んでいき後世評価された作家をたずねるお話です。もうお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、引用した部分は「白鯨」「ビリー・バット」のハーマン・メルヴィルの死に際に会いに行くシーンです。白鯨の方は何度も映画化されているので映像の方が有名かも。
私はというとあまりメルヴィルに詳しくなく、中学生の頃原作を読んで、あまりの比喩表現の多さにミジンコ並みの脳が破裂し「は???」となりながら映画を観てやっと、どういう話なのか納得できたくらいのお粗末さです。特にこの場面を引用したのは、自分がそういった不遇だった作家達に愛してると伝えられたらどんなに良いだろう!と思ったからです。
主に宮沢賢治とか宮沢賢治とか宮沢賢治とか。やっぱりね、そんな事ありえないとわかってても、絶望とあきらめの内死んでいった敬愛するあの人の最後は、希望に包まれて、安らかであって欲しいと願うわけですよ。一読者なら小癪だわと思われるけども、その気持ちをブラッドベリさんが書くんだからもう誰も何もいえないよね。そこにしびれる憧れる。
以上、レイ・ブラッドベリ著 短編集1999年「瞬きよりも速く」から「最後の秘跡(原題Last Rites)」抜粋でした。